コラム

 公開日: 2014-11-04 

苦しい時の「神頼み」から「おかげさま」へ

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。




 ご質問がありました。
「苦しい時の神頼みって、いいんですか?
 いつもは信仰心なんかない母親が、退院してから、いろいろ拝みはじめたんですが……」

 仏神は私たちの〈親〉であり、普段は何の連絡もしない息子が、お金がなくなった時だけ連絡をしても、親は、心で苦笑しつつお金や米などを送ってくれるのと同じで、こうした神頼みに咎(トガ)はありません。
 ダライ・ラマ法王著「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」にある、ややショッキングな項目を参考にして、少し、考えてみましょう。

【絶望からの信仰は、正しい態度ではない】

 以下、「」内は法王の言葉であり、読み解いてみます。

「~、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。
 そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。」

 昔から「病気と貧困が信仰に向かわせる」と言われ、実際、新興宗教の多くがそうした方々へ強いアプローチをかけて急激な膨張を成し遂げてきた。
 その一方で、恵まれた環境で生活している方々は別に〈神頼み〉をする必要もなく、自力で結果を出しているという認識があれば、信仰はあまり意識されないのではないか。

「貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。
 これは正しい態度だとは言えない。」

 あまりに貧しく、あまりに虐げられると、意志するものが何も実現されず、無力感や絶望感などに陥る場合がある。
 法王は、そこで信仰へ逃れることに問題があると指摘する。
 厳しいようだが、罠へ堕ちないためには、ハッとする必要がある。

「もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。
 まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。
 あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。」

 法王は、〈苦しい時の神頼み〉がもたらす錯覚について説かれる。
 たとえば、お金がなくて困り、物質的ご利益があるとされている神様へ熱心に祈る心の状態はいかなるものか?
 宗教心があり「拝んでいるから、もう大丈夫」と考えるなら、それは本当の安心ではなく錯覚に過ぎない。
 客観的状況は変わっていないからである。
 そもそも、〈お金がない〉→〈お金を手にする方法を試みる〉→〈何をやってもお金が手に入らない〉→〈最後の方法として神様へ祈る〉となっている。
 ならば、目的はあくまでもお金を得ることにあり、祈ってもなお、お金がないなら、問題は解消していない。
 しかし、宗教団体によっては、熱心に拝むことを勧め、「拝んだから大丈夫ですよ」と暗示をかけて〈安心〉が手に入ったと思わせ、信者にする場合がある。
 それを、「窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう」と指摘された。

 では、拝んだ結果、何かの成り行きでお金が手に入って喜んだなら、そこにある満足は〈宗教的安心〉と言えるだろうか?
 事実として、満たされたのは信仰の世界(心)ではなく、お金の世界(モノ)である。
 ただし、拝んだことが満たされた原因の一つだろうと判断すれば、お金のない時にはまた、拝むかも知れない。
 これでは、どこまで行っても、目的は、お金を手にするというモノの世界にあり、心の世界にはない。
 だから、もしも〈二匹目のドジョウ〉がいたとしても、〈三匹目のドジョウ〉がいなければ、拝む対象は、たやすく他の神様へ移行してしまう。
 より、効果がありそうな手段を求めるのは当然だ。
 かくして、〈拝んでいれば大丈夫〉ではないし、〈拝んで成果があれば真の信仰心が深まる〉わけでもない。
 だから、困っている時に、誰かから、拝めば安心と勧誘されたなら要注意である。
 また、ご利益があるからと手を合わせているだけなら、本当の安心は得難い。

 当山では、心願成就を祈るご祈祷を〈入り口〉と考えている。
 自分を超えた存在に対して真摯な気持になり、善き願いを心から祈るならば、願ったとおりに成就しようがしまいが、宗教的行為という観点からは、目的の半分が達成されていることになる。
 取るべき手立てのすべてを尽くしてあとは大いなるものへお任せするという姿勢そのものが、普段の自己中心的な態度ではないからである。
 そして、成就すればすなおに感謝の気持が起こり、不首尾に際しては自分の未熟を知ったり、願いそのものに対する反省が起こったりする。
 こうして、目的の残り半分も達成される。
 だから、藁(ワラ)にもすがる思いになった時は、本当の信仰心が目覚めるチャンスであり、そうした方向へと向かっていただくのが、ご祈祷に携わる宗教者の役割である。

 さて、「本当の信仰心」をもう少し考えてみよう。
 それは、まず第一に、どうしようもない壁にぶつかることによって自分の矮小さ、未熟さなどを知り、同時に、大自然やご本尊様などに対して自分と異次元の何かを感得する心である。
 この世の無情、非情、不条理、そして情けない自分などに心の奥底から呻きつつ、自暴自棄にならず、〈人でなし〉にもならず、歯をくいしばる時、具体的対象があろうがなかろうが「神様!」「お母さん!」などという心の叫びが生ずることである。
 お不動様に親しんでいれば「お不動様!」となり、お地蔵様に親しんでいれば「お地蔵様!」となることだろう。
 自分が当てにならなければ、自己中心的な我執(ガシュウ)は消えている。
 第二には、成就における感謝と不首尾における反省である。
 成就に際しては、今の自分が最大の力を発揮してなお、届きそうにないところへ届いたのだから、感謝の気持が起こるのは当然である。
 心の底から「おかげさま」と手を合わせたい。
 また不首尾に際しては、大いなるもののお力にすがりながらなお、届かなかったのだから、〈そもそも〉のところをふり返ってみる必要がある。
 自信過剰だったのではないか、高望みだったのではないか、力を出し切っていなかったのではないか、あるいは方向が狂っていたのではないか……。
 がむしゃらに前へ、という姿勢だったところに立ち止まる時間が生じ、自分自身を冷静に省みると、気づかなかった事実が見えてきたりする。
 これもまた「おかげさま」なのである。
 日々、「おかげさま」で生きる宗教者も、敬虔な信者さん方も以心伝心で、すがる方々の心にある「おかげさま」という心の音叉へ共鳴を起こさねばならない。

「あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信仰の限界も、心的世界の限界も知らない、それこそが正しい状態だと言えるだろう。」

 私たちは、本当に〈満ち足りている〉という状況がなかなかわからない。
 それは、欲しいモノが無限に手に入るということではないからである。
 信仰についても、本当に〈救われている〉という状況がなかなかわからない。
 たとえ、祈ることによって一種の安心感を持てたとしても、それが、思い込まされているだけかも知れないし、いつ、いかなる場合でも揺るがないという保証はないからである。
 心的世界についても、本当に〈モノの原理とは異なる流れである〉ことは理解し難い。
 モノは目に見えて納得が簡単でも、心は目に見えず、理性と感性を総動員した省察や感得がなければ納得へたどりつきにくいからである。
 だから私たちは、自分がまだ、よくわかっていないと自覚しつつ学び、考え、実践したい。
 たとえ恵まれていようと、いまいと、本当の信仰心は、〈可能性〉として等しく与えられていると言えよう。
 苦しい時の神頼みは、可能性が現実となるチャンスである。

 今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM



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 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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