コラム

 公開日: 2015-03-11 

触れるってどういうこと? ―日常生活に発見する菩薩の世界―

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。




〈菊池寛著『十住心論』の裏表紙は堂本印象の筆によります〉

 新幹線のイスに腰を下ろし、左手の甲へ右手の掌を載せて出発を待った。
 その時、両方の手が〈触れている〉という動かしがたい事実に戦慄が走った。
 触れるのは存在の確認作業であり、全神経がその最前線ではたらいている!
 神経がはたらいている事実はそっくりそのまま、自分という意識の存在を告げている。

 これまでこうした気づきがなかったのは、自分の手が何か他の対象物へ触れるという形しか意識になく、その時、意識のほとんどは対象物に奪われていたからである。
 今回は、触れるのも触れられるのも同じ自分だったので、接触そのものが強く意識された。
 最も明らかに対象物へ飛んでしまうのが異性との接触である。
 意識は異性に奪われてしまい、接触している自分そのものの存在感は、恐らく、相手の存在感の10分の1もないだろう。
 パソコンのキーボードを叩くのも同じであり、叩く行為とディスプレイとの関連以外はほとんど、意識にのぼらない。

 ところで、丸山圭子が昭和51年に唄った『どうぞこのまま』はこう始まる。

「この確かな 時間だけが
 今の二人に 与えられた
 唯一の あかしなのです
 ふれあうことの 喜びを
 あなたの ぬくもりに感じて
 そうして 生きているのです」

 今から約40年前の作品だが、男女の愛がテーマなのにどこか聖なる感じが伴っており、忘れられずにいた。
 なぜ、聖性があるのか?
 それは、二人が等価だからではないか。
 触れる自分と触れられる相手との間に〈区別〉はない。
 触れるという真実はまぎれもなく〈二人〉によってもたらされており、〈自分が相手に触れている〉という分別も、〈相手の存在感を確かめる〉といった貪りもない。
 触れ合うところに真実の時間が流れ、それは二人の存在を証(アカ)している。
「喜び」「ぬくもり」「生きている」これらはすべて、真実体験によってもたらされた宝ものである。

 ようやく『理趣経(リシュキョウ)』の一節「触清浄句是菩薩位(触れるという清浄な世界は菩薩の位にある)」を理解する糸口がつかめたようだ。
 この『理趣経(リシュキョウ)』は真言宗の根本経典であり、最もよく読誦されるが、師より与えられ、読み方は習っても、意味は基本的に教えられないことになっている。
 修行を積みつつ生きて行く中でいつ、「そうか!」と腑に落ちる時がくるかどうかわからない最奥の経典である。
 また、読誦することそのものにご利益があるとされている唯一の密教経典でもある。
 
 行者は「とにかく読誦せよ」と与えられても、「はい」にはとどまれない。
 何が書いてあるのだろうと調べないではいられない。
 そして、途惑う。
 言葉は密教辞典をひけども理解しにくく、文章をようやく現代語にしてみると言葉の意味としてわかっても結局、何を説いているのかは見当もつかない。
 しかも、17の章節それぞれがマンダラ化する空間意識を要請している。
 だから、行者はずっと、3つの修行を続ける。
 読誦し、調べ、〈真理真実をつかみたい〉と祈りながら生きる。
 
 70才近くなり、ようやくたった一節の世界へ入る扉の鍵らしいものが見つかったと感じてこの項を書いている。
 そう言えば、何かの本にこうあった。
「理趣経はそもそも秘密経典であり、昔は、臨終間際になってようやく、口伝(クデン)の部分が伝授された」
 何てことだ、と思いつつ、一方では、死ぬ間際まで修行してみなければきっとわからないのだろう(特に自分のように娑婆でさんざんやらかした罪深い人間には)、と納得もしたものだ。

 さて「触清浄句是菩薩位」に何を感じとったか、次回、書いてみたい。
 なお、故司馬遼太郎は「伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いている(大岡信の言葉)」『空海の風景』にこう訳している。
「男女が相手を触れあうことは本質として清浄であり、菩薩の境地にある。」
 また、氏は、お大師様について同著に書いた。
「人間における性の課題をかれほど壮麗雄大な形而上学的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術としてふったび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいるであろうか」
 当代一流と目された氏のベストセラー作品なのに、内容はあまりにも不思議でならなかった。
 伝授された経典と、お大師様が書き残された文章をたどたどしくたどりつつ生きている愚かしい一行者としては、お大師様がいつ、どこで「性の課題」を「形而上学的世界として構成」したのか、痕跡も見つけられない。
 むろん、仏像や法具を単なる「造形芸術」として眺めたこともなく、自覚の瞬間はあっても、「戦慄的陶酔」など一片の体験もない。
 さて、どうなるか。

 今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y


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 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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