コラム

 公開日: 2015-04-18 

罪と懺悔に悩む方へ

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。





1 罪人であると気づいてから

 Aさん、私たちが皆、罪人であると気づいてしまった人は苦しいものです。
 ただし、苦しいと感じるところにこそ、救いの手が潜んでいます。

 お釈迦様は、そこで「なぜ、こうした存在なのか?」という疑問に耐えられず娑婆を離れました。
 そして、こうした存在であることに無頓着な態度こそが根本原因であると気づかれました。
 また、疑問を突き詰めると、解があることにも気づかれました。
 解は誰かに与えられるのではなく、私たち全てがもっており、問題は気づくかどうかであるとも気づかれました。

 さて、人間を含め、生きものは、何らかの形で他の生きもののいのちを奪わねば生きて行けません。
 獣も鳥も自然にそうして生き、生きられなくなれば死んで行くだけです。
 しかし、人間だけは、奪う際に〈ごめん〉〈済まない〉〈ありがとう〉という気持になります。
 罪を感じ、懺悔し、感謝するのです。
 それは、いつしか罪人であると知ってしまったことを意味します。
 また、罪→懺悔→感謝の流れが救いとなり、他の生きもののいのちを奪わねばならないという苦に苦しめられず、〈他のいきもののためになりながら生きられる道筋〉を知ったことをも意味します。

 私たちは仏教という宝ものを与えられているので、上記のように考えますが、誰からも解を与えられていないお釈迦様はまず、徹底的に苦しまれました。
 苦しむ実存を「一切は皆、苦というありようを離れては存在しない」と端的に述べ、その原因と解決法と苦を克服した世界とを説かれました。
 私たちを生かす力が持っている〈過剰性〉とでも言うべきものを瞑想により抑制しようとされました。

 その存在論に導かれ、修行法を実践する後代の弟子たちはやがて気づきます。
 お釈迦様が解に気づき、私たちも気づくということは、私たちは本来〈気づき得る〉存在ではないか?
 つまり、仏と成る性を持っているのではないか?
 そして、よくよく眺めてみれば、山も川も草木すらも、何もかもが気づきのきっかけとなり得るのではないか?
 存在するものの本質的ありようは、私たちへ執着させ、苦をもたらすのではありません。
 ありのままに救いの手を差し伸べているのです。
 こうして大乗仏教へ至りました。

 今や、行者たちの積極性はその先へと達しています。
 私たちは、食べ物を得て生きられれば嬉しい。
 誰かから奪っても生きられれば嬉しいが、一方では、罪人であるという辛い気持が起こる。
 しかし、誰かに与えて喜ばれれば無条件に嬉しく、心の暖かさは持続し、さらなる〈与え〉のきっかけともなる。
 そして、〈与える者〉となっている時、〈奪う者〉としての苦しみはどこにもない。
 こうして、生存を持続させる力は抑制されるべきものであるよりも、こうした真実を理解し〈与える者〉として生きるため、積極的に活用されるべきものであると気づかれました。
 密教の大欲(タイヨク)思想です。

 また、私たちの気づきは全て、文字や言葉によるのであり、そこから生まれるイメージを突き詰める過程はすでに〈そのもの〉と成りつつあることを意味しており、たとえば〈与える者〉としての権化(ゴンゲ)である菩薩(ボサツ)のイメージを深めて行けば菩薩に成れることがお大師様によって詳しく説かれました。
 奪っても嬉しいが、与える喜びにはかなわない。
 奪えば奪われた者に悲しみや怒りが生じ、奪った者には後ろめたさを感じるが、与えればそうしたものは生じない。
 ならば、〈与える者〉のイメージに合わせた生き方をすることによって苦は消え、罪人でなくなる。
 こうして身体で善き行いをし、言葉を善く用い、心の内容を善くして苦を脱する即身成仏(ソクシンジョウブツ)の思想と方法が確立しました。
 
2 懺悔について
 
 私たちは、ふとしたおりに懺悔の心が起こります。
 他人が悪行の報いを受けたなどの情報に接し、我と我が身をふり返って自分の悪行に身震いする場合もあり、悪運や大病などに襲われて〝なぜ自分がこんな目に遭うのか?〟と考え、思いもよらぬ因縁に思い至り、愕然とする場合もあります。
〝ああ、何ということを……〟と後悔の念に引きずり込まれ、胸が冷え冷えとなってきたり、慟哭の思いが噴き出したりします。
しかし、いくら相手に対して〝済まない〟と思っても、謝って済む問題ではないケースが多いものです。
人を人とも思わぬ輩は別として、まっとうな人は、そうできるなら、それで解決するなら、とっくにそうしているからです。

心情として謝りきれなかった。
相手との人間関係上、タイミングを失した。
謝る力を失った。
相手が亡くなったなど会う手段がない。
こうして私たちは、取り返しのつかない行為により発生した消せない懺悔を抱えて生きます。

では、万人を救うお釈迦様はどう説かれたか?

「もし過って悪行をなしても、悪業(アクゴウ)が悪しき結果をもたらさぬよう善行に精進するならば、やがては人を救い導く智慧と慈悲の灯火をともすこともできるであろう」。

  過去の悪行が悪業という〈悪しき結果を招く力〉を持っているという事実は消しようがありません。
しかし、善行によって生ずる善業(ゼンゴウ)という〈善き結果をもたらす力〉を強めるならば、悪業のはたらきは相対的に小さなものとなり、罪人が救済者にもなり得ます。
事実、空(クウ)の教えを最高度に深めた龍樹菩薩(リュウジュボサツ)は娑婆で迷っていたおり、悪行によって殺されかけましたが、懺悔し、生き直し、ついには菩薩と称されるほどになりました。
 つまり、懺悔の心が起こったならば、愚かで罪深い自分のままで自他のためになる善行に勤しむしか、救われる道はないのです。
 こうして〈善行〉は清めであり、向上であり、救いでもあります。

 では、私たちは自力だけで救われるのか?
 み仏のご加護はどうなっているのか?
 お大師様は明快に説かれています。

「心は即ち本尊なり」。

 み仏は私たちの心におわす満月であり、自己中心など煩悩(ボンノウ)の群雲がその光を遮っていますが、清浄な行為と言葉と心とのはたらきによって群雲が払い去られれば、私たちはいつでもみ仏そのものになれます。
 教典も、仏像も、そして、澄んだ心で気づきさえすれば、風や鳥の声や街のざわめきまでもが、この真理を説いています。

 救い主は私たちの心を離れたどこかにいるのではありません。
 それは同時に、罰する者もまた、いないことを意味します。
 私たちはともすると、他人の悪行を暴き立て、罰したくなります。
 罵る、土下座させる、陰口をする、仕返しをする。
 これらは全て、自分を正義の権化に見立て、悪しき者を罰しようとする行為ですが、はたして私たちの誰がそうした資格を持つ〈善の結晶体〉であり得ましょうか?
 み仏ならぬ私たちは必ず、一生のうち幾度も、幾度も、取り返しのつかぬことをやらかしてしまいます。
 もしも、生き仏ほどの人格者でない誰かが「自分には何一つ思い当たるフシがない」と言うならば、その〈気づかぬ迂闊さ〉できっと、周囲の人々を傷つけていることでしょう。

 でも、絶望する必要はありません。
 冒頭に書いたとおり、私たちが皆、罪人であると気づいたところにこそ、人間が人間として成長して行くきっかけがあるからです。
 別に特定の宗教を信じなくても、心を澄ませば自然に「罪→懺悔→感謝」の流れは起こることでしょう。 
 最後にもう一つ。
 70年近く生きて来た者の拙い体験からすると、誰かを責めるという方法によって正義の実現を得られたという喜びよりも、誰かを許すという方法によって得られた円満解決後の安堵感や達成感の方が、数倍も、双方へ安心と笑顔をもたらすものです。
 もちろんこれは社会的問題ではなく、個人間の問題についての個人的感想です。

 Aさん、気づきと煩悶は必ず、人間のまっとうさを深めるスタートとなります。
 苦しみのエネルギーは必ず、喜びの爆発をもたらします。
 これからも、共に考え、進みましょう。
 あなたのエネルギーに圧され、乱筆乱文になってしまったことをお許しください。
 み仏のご加護を祈っています。

 今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0



 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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