コラム

 公開日: 2016-01-25 

苦しみはどこから? ─「諸行無常」と「諸法無我」を対にして学ぼう─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。




〈ご縁の方から山口百恵のレコードをいただきました。皆さんと一緒に聴く機会をつくりたいと思っています〉

 古人は言い遺した。
「蓼(タデ)喰う虫も好き好き」
 世の中には、薬味や刺身のつまになるほど辛い蓼の葉を好んで喰う虫もいる。
 好みというものはさまざまであるというのが直接の意味だが、多くは、〈よりによって〉という他者からの揶揄(ヤユ)や批判を込めて用いられる箴言(シンゲン)である。
 たとえば、誰もが羨むような生まれと育ちと知能に恵まれた青年が、あばずれ女を好きになったばかりにさんざんな目に遭ったりすると、周囲の人々はあきれて嘆息を漏らす。
「彼がよりによってあんな女に惚れるとはねえ。
 蓼喰う虫も好き好きとは、よく言ったものだ」

 とは言え、青年は苦しむばかりではない。
 惚れた悦びも、おそらく惚れられた悦びも体験していることだろう。
 惚れた上でのできごとを、本人がどう感じているかはわからないが、迫力ある人生のドラマを味わっていることだけは確かだろう。
 これはなぜ、否定され得るのか?

 いずれにせよ、この事態が仏教的にどうなのか、疑問が生じる。
 苦を厭い、自他共に苦から離れることを最上の道とする仏教徒は、惚れなければよいのか?
 さらに言えば、惚れるとは、何かに惹かれる感性がはたらいている状態だが、この〈惹かれる〉がなくなれば、私たちは苦を感じなくなり、幸せになれるのか?
 極論すれば、仏教の悟りは〈無感動〉を伴うのか?

 ダライ・ラマ法王は、この問いへ明確に答えておられる。

「『私』という自我をつかむ心を減らせば減らすほど、『私』にとって魅力のあるものに対する欲望も、『私』にとって嫌なものに対する嫌悪も、小さくなっていくことだけは明らかです。
 つまり、執着をする主体となる人が実体を持って存在しているというとらわれがなくなれば、その人は自分の感覚に対する欲望や執着、嫌悪の心を起こすことはありません。」

 お釈迦様は、日本人にはとても理解しやすい「諸行無常(ショギョウムジョウ)」と合わせて「諸法無我(ショホウムガ)」と説かれた。
 ありとあらゆるものは、それ自体に〈存在するための実体はない〉という。
 草木もイヌやネコも、ビルも山も、町行く人々も、そして自分も、時間の流れの中でたまたま、諸条件が調ってそこに在るだけであり、刻々変化して止まない条件次第では、一瞬後に無くなっても別に不思議なわけではない。
 このことは、爆弾テロに悩まされている地域の方々にとっては、特に強く実感されるのではなかろうか。
 昨日と変わらぬ賑わいを見せている市場が一瞬にして破壊され、たった今まで談笑していた人々がこの世にいなくなる。
 まさに諸行無常だが、それは同時に、諸法無我であることを示している。
 もし、市場も人も、それがそこに在るべき実体を持っているのなら、ターミネーターやゾンビのように〈無くならない〉はずだが、爆弾という縁が生じたばかりに、はたらきを持たないモノとしての欠片に帰してしまった。

 つまり、「実体を持って存在しているというとらわれ」は、勘違いによって生じているのであり、勘違いがなくなれば、「欲望や執着、嫌悪の心」も起こらなくなり、苦の世界から脱することができる。

「しかし、幸せを幸せと認識し、それを望むことも、苦しみを苦しみと認識し、それをなくそうと望むことも、正しい理由に基づいた正しい心です。
 魅力あるものを魅力あるものとして認識することも、嫌なものを嫌なものとして認識することも、それ自体は正しい認識なのですが、それを間違ったアプローチのしかたによって誇張し、妄分別によって、魅力あるものを実際以上にはるかに魅力あるものとしてとらえることが間違ったことなのです。」

 ここが重要なポイントである。
 花の美しさに見とれることそのものに問題があるわけではない。
 それを枝ごと切って持ち帰り、自分だけが楽しめばよいというところまで行けば問題となる。
 
 そもそも、あらゆる生きものは、感情としてというよりも、条件付けとして生存のために選び、生存のために避けるというはたらきを持っている。
 アメーバですら、エサは摂取し、毒は嫌う。
 人間も同じく異性に惹かれて生殖を目指すが、「正しい心」による行動の範囲なら祝福を受け、「間違ったアプローチ」によるストーカーになれば逮捕される。
 どこかで度を超えてしまうところに問題がある。

 それにしても、かのシラノ・ド・ベルジュラックは、親友クリスチャンに成り代わり、毎日、ロクサーヌへ恋文を送った。
 小生の友人A氏は惚れた女性宅の二階へよじ登り、窓から侵入して逢瀬を重ね、無事、結婚して添い遂げようとしている。
 時代により、文化により、状況により、人により、どこまでが正しいのか、線引きは難しい。

 いずれにせよ、惚れた彼女も、ワクワクしている自分も、その根本的なありようは儚い「無常」であると同時に「無我」であることをふまえれば、容易に一線を越えないで済むだろう。
 この「同時に」が大切である。
 なぜなら、無常の意識だけでは〝どうせ無常なのだから、好き勝手にやろう〟と暴発しかねない。
 無我、つまり確たる実体を持たないことをも瞑想などによって観られるようになれば、「妄分別」も「魅力あるものを実際以上にはるかに魅力あるものとしてとらえる」こともなくなることだろう。
 重要な「諸行無常」と「諸法無我」はきちんと対にして学びたいものである。

 今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8


 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。合掌

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