コラム

 公開日: 2016-05-30 

メメント・モリについて ─死を忘れ、思いやりを忘れた私たち─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。



 このところ、ご葬儀や遺言など、死後のご相談に際して、真剣に死を想う方々のお心に清浄なものを感じる機会が多い。
 
1 メメント・モリとは?

 古代ローマから言われてきた「メメント・モリ」という言葉がある。
 直訳すれば「死を想え」となるらしい。
 ウィキペディアによれば、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われ」、「将軍の後ろに立つ使用人」が「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ことを思い出させる役割を果たしていたという。

 私たちはこう読むと、〝そうか、古代ローマでも賢者は無常を忘れなかったのか〟と感心したりするかも知れないが、そうではなかった。
 趣旨は「今を楽しめ」であり、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」だった。
 勝者となってなお、戦争でいつ死ぬかわからない身であることを忘れず、今は旨酒にしっかり酔おうとわざわざ思う必要があった。
 それだけ、人を殺し、町を破壊し、仲間を失ったことが重く、恐ろしく、悔恨に満ち、将軍も戦士たちも、いたたまれない思いに苛まれていたことを示している。

 後に、キリスト教世界では、「キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった」。
 死によって行く先が天国と地獄とに分かれることを忘れず、信仰に励みなさいという意味で使われたのだ。

2 本当の死・本当の生

 さて、平成20年に出版された写真家藤原新也氏の『メメント・モリ』という単行本がある。
 氏は言う。

「この言葉は、ペストが蔓延(ハビコ)り、生が刹那(セツナ)、享楽的(キョウラクテキ)になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。」

「本当の死が見えないと本当の生も生きられない。
 等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識(ココロ)を高めなくてはならない。
 死は生の水準器(スイジュンキ)のようなもの。
 死は生のアリバイである。」

 そして写真集は締め括られる。

「いま世界は疲弊し、迷い、ぼろぼろにほころび、亡びに向かいつつある。
 そんな中、つかみどころのない懈満(ケマン)な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている阿呆者(アホウモノ)の方が、この世の生命存在としては優位にあるように思える。
 わたしは後者の阿呆の方を選ぶ。
 わたしは、あきらめない。」

 懈満とは、怠惰に満ち、問題意識を持たず惰性に流される状態である。
 氏は、死を想わなくなった生の破綻を観ている。
 死を想うことなど何の得にもならぬと考え、前向きにならねばという強迫観念にとらわれている私たちは、いかなる死も〈向こう側〉や〈そちら側〉や〈脇〉へ追いやって、生の効率に取り憑かれた焦りの日々を過ごしているが、それはあたかも方肺飛行のような危ういものでしかない。
 はっきりと「本当の死」を見つつ生きる者は、惰性で生きる人々から「阿呆者」と思われるが、死の「効力」を知っている氏は、阿呆者であり続けたいと宣言する。

3 進化と退化

 詩人白鳥光代氏は詩集・句集『ホモサピエンス』に収められた詩「ホモサピエンス」にこう書いた。

「何やら ホモサピエンスは
 どんどん進化し 止まるところを知らぬらしい
 ヒトの仮面をつけたまま
 動物の生き方を捨ててしまっている
 ゆがんだ地球に浮遊しながら」

「目を合わさず画面を見つめたままで
  会話が生まれ
 生きる糧を得るはずの仕事によって
  押しつぶされるパラドックス
 交尾をしなくても 子供が生まれ
 親が 子が 殺し合う
 アメーバは 何億年もアメーバだった
 ヒトは たった 数十万年で
 肥大化する脳に弄ばれ
 特有の情感を いやいや
  生き物の機能すらも失っていくのか」

「ホモサピエンスの五感は鈍くなるばかり
 そういえば
 進化とは 退化の意味も含むのだった」

 死を感得し、死を思わないところに「情感」は生まれない。
 死が排除された架空の生において「五感は鈍く」なって行く。
 私たちは何かへ激しく反応する一方で、何かへはほとんど反応しなくなってしまった。
 どこが進化したのか、どこが退化したのか、世相を眺め、来し方を振り返って見ると恐ろしくなる。
 人間性を根本から崩すイジメは、子供の世界のみならず、セクハラ、パワハラとして大人の世界にも広がったように思える。
 はたらく人々は、使い捨てられる道具となり、はたらく人々もまた、仕事場を自分のために利用するのみであるように思える。
 財物や権力や健康に富む人や階層や国家は、それらに恵まれぬ人や階層や国家との距離を無限に広げて恬淡としているように思える。

 総体的に眺めて、自分の生にたいする執着心が無限に高まり、他人の生にたいする関心が無限に減少しているのではないか?
 それは、自他共に死すべき宿命を負っているという実感と視点の欠落によるところ大なのではないか?
 死を追いやり、死から遠ざかり、死を忘れたがゆえに、思いやりもまた、薄れたのではないか?
 共に死すべき存在として平等である「共死」を忘れれば、「共生」もまた成り立たないのだろう。
 メメント・モリは、現代においてこそ、不可欠の言葉である。

「おん ばざら たらま きりく」
 今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0

 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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