コラム

 公開日: 2016-10-17 

【現代の偉人伝第236話】 ─小児科医熊谷晋一郎氏─

 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。


〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 10月16日付の朝日新聞『ひもとく』欄は、「相模原事件が問うもの」と題し、自らも脳性麻痺という障害を持つ小児科医熊谷晋一郎氏の一文を掲載した。
 
 私たちは、障害者や依存症者など、一人では社会的活動が困難な人々を排除したい意識にかられる場合がある。
 氏は、少数派を排除しようという意識こそが暴力を生むという。
 ご自身の人生をふまえた論旨は、人生相談の場で、ご来山の方々と一緒に立ち往生しがちな小生にとって、目の覚めるような切れ味で真実を明らかにしている。
 以下、7月26日に起こった相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」における大量殺人事件をふまえた文章について考えてみよう。

「私が生まれた1970年代は、脳性まひの子どもが生まれると早期のリハビリで、なるログイン前の続きべく健常児に近づけようとするのが一般的だった。
 もし健常児に近づけなければ、親亡き後、人里離れた大規模施設に入るしかない。」

 托鉢で一軒、一軒と訪ねるうちに、家庭内の障害者と出会うことがしばしば、あった。
 それは裕福そうな豪邸でも、貧しそうな小さいお宅でも同じだった。
 はからずも玄関へ姿を現してしまった家族を追って、必ず誰かが出てこられた。
 そのほとんどは無言、もしくは多くを語らず、重く伏し目がちな視線で、早く返って欲しいと訴えかけてきたことを思い出す。
 わずか10年ほどの間に、そうした光景はすっかり消えた。

「当時の、一部の介助者や支援者の愛や正義を笠に着た、うまくリハビリの課題に応えられない寝たきりの私たちを足で踏みつけるなどの暴力。
 それに対して何もできない怒りと無力感が、緊張とも弛緩(しかん)ともつかない、内臓が落ちそうな感覚にさせた。
 事件は、あの日々に私を連れ戻すのに十分なものだった。
 事件報道に触れ、あの頃の身体感覚がよみがえり、街ゆく人々が急に自分を襲ったりしないかと、身構えるような感覚を覚えた。」

 「内臓が落ちそうな感覚」には嘔吐を覚えた。
 身体は反応したが、思考は想像を許さない。
 恐ろしい断絶、不可知。
 障害を持った方が、それだけの理由で「急に自分を襲ったりしないか」と不安を覚えるならば、彼らは健常者とまったく〈別なこの世〉を生きていることになる。
 しかし、考えてみれば、私たちの偏見は、その対象となる人々を、そうした〈別なこの世〉へ追いやっているのだ。
 世界のどこかで絶えず起こっている宗教や民族の違いによる殺し合いは、差別と隔離の意識が行き着く果ての姿だ。

「70年前後の重度障害者が置かれていた状況を知る上で一読を薦めたいのが『障害者殺しの思想』である。
 筆者の横田弘は、思想的な深さとラディカルさで注目された脳性まひの当事者団体「青い芝の会」神奈川県連合会のリーダー的存在だった。
 彼は会の行動綱領に、「われらは愛と正義を否定する」と掲げた。
 今回の容疑者のロジックにも見て取れるように、障害者は悪意というより、愛と正義に基づいて殺されうる存在だという事実を鋭く指摘している。」

 いわゆる「愛」も「正義」も、差別する側における意味と、差別される側における意味が異なり、一つの言葉と概念が同じ世界を目ざす力になることはないという指摘だろう。
 そうした当てにならないものに頼っては生きて行けないことを直視した現実から立ち上がろうという呼びかけに違いない。
 一家族内ですら、家族全員が共有する「愛と正義」で身内の障害者や依存症者を守れないケースが数多くある。
 まして、社会というほぼ無限定の空間においては、共通認識を醸成することは困難だ。
 そこを突破しつつ、偏見・差別というどす黒い意識と戦って行くには、問題意識の共有が不可欠だ。

「事件後、薬物依存症の自助活動をするダルク女性ハウスの上岡陽江さんから、『友達やめないでね』というメッセージが届いた。
 これは二度目の衝撃だった。
 当事者研究を通して立場を超えて深めてきた連帯に、ヒビが入りかねないと感じたからだ。
 この言葉は、脳性まひ当事者の私を被害者側と同一視し、薬物依存経験者を容疑者側に同一視する世間の眼差(まなざ)しをふまえてのことだったと思う。
 大麻の使用が犯行の要因だったのではないかとか、措置入院制度見直しを巡る議論の中で、私と上岡さんたちを分断しようとする視線が作用しているのだ。」

 相模原事件では依存症者が障害者への加害者になったことによって、社会から排除されがちな者同士という立場から連帯してきた両者が、対立する意識を持ち始めたのではないかと危惧している。
 なかなか気づかれにくく、深刻な状況である。

「しかし、『その後の不自由』を読めば、依存症者の多くは、自ら暴力の被害者であることが多く、結果信頼して他者に依存できなくなるからこそ、消去法的に物質に依存するしかない状況に置かれていると分かる。
 少ない依存先という点では、健常者向けにできている社会で、家族や施設にしか頼ることのできない重度障害者と変わらない。」

 これも、依存症者の実態をふまえた指摘である。
 好きで依存症という病気になる人は誰もいない。
 そこへ追い込まれる過程と結果を見れば、差別と暴力に脅かされる者として障害者と同じだ。

「介助者もまた依存先が少ない。
『介助者たちは、どう生きていくのか』で、自らも介助者である渡邉は、孤立と過酷な労働環境の中で追い詰められていく介助労働者の姿を描いている。
 元施設職員の容疑者がどのような状況におかれていたか分からないが、安全管理目的で施設が閉鎖的になり、介助者と障害者が密室的な関係に陥ると、暴力を呼び寄せやすくなるだろう。」

 この文章には寒気がした。
 人生相談に来られる介助者の方々のお話から、現場の過酷さを多少、想像できていたからである。

「障害の有無を越えて、『不要とされるのではないか』という不安に取りつかれた現代人は、今、岐路に立たされている。
 弱い立場にある人を、資源を奪い合う存在として排除するのか、それとも、同質の不安を抱えた仲間として支え合うのか。」

 まったく同感である。
 グローバリズムを錦の御旗とし、すべての正義をそこに収斂させようとする一握りの勢力に都合良く構築されたこの文明は、ほとんどの人々を道具とし、資本と権力をつかんでいる人間以外は、いつでも「不要とされる」存在だ。
 いいかげん、私たちは目を覚まさねばならないと思う。
 私たちは、いかなる文明にあっても、常に「公正さ」だけは等しく求めてきたのではなかったか?
 もしも人間が創る歴史に進歩というものがあるならば、その尺度は、「公正さの実現」以外のものであり得るだろうか?
 今の社会、この文明は、果たしてそのことをどれだけふまえているだろう。
 格差の拡大は、不公正さの拡大にほぼ、等しい。
 言葉を変えれば、人間を道具とみなし、その要不要を決める一部の人々と、要不要すなわち生死を他者に決められる多くの人々との距離が拡大しているのだ。
 後者こそが、「同質の不安を抱えた仲間」ではないか?

「障害者も、依存症者も、介助者も、社会の周縁に置かれた依存先の少ない密室では、暴力の加害者にも被害者にもなりうる。
 社会が一部の少数派を排除して、自らがクリーンに戻ったという幻想を抱くのではなく、まさにその排除こそが暴力を生むという事実に目を向けるべき時期だろう。
 すべての人の依存先を多く保つ社会が求められる。」

 ここで言う「依存先を多く保つ社会」は、誰もが、安定した居場所を見つけられる社会である。
 私たちはそろそろ、鼻先にぶら下げられたニンジンを取り払おうではないか。
 もっと儲けよう、より大国になろう、地球上の悪者をやっつけよう、こうしたイメージよりも、格差が少なく誰もが安心して生きられる公正な社会を目ざしたい。
 そうした国家同士で真の平和を目ざしたい。
 障害者、依存症者、介助者といった方々へ心の目を向ければ、共に生きられる社会、共生社会の価値を感じられることだろう。
 今や、科学技術の最先端を行くネットワークと、生身の人間の共生が模索されている時代だ。
 人間同士の共生は、その一歩、手前の話ではないか。
 それが実現できないままに、一部の者が自分たちに都合良くネットワークを駆使する社会になってしまえば、最後は〈人間〉の反乱が歴史をガラガラポンの渦に落としてしまうかも知れない。
 10月12日午後、老朽化した東電の施設から出火し、ただちに東京都内延べ58万世帯が停電した。
 交通機関も大幅に乱れた。
 電気とネットワークに頼る私たちの文明は根本的な脆弱さを抱えている。
 そこを支えながら何とかこの社会を維持して行くためには、公正な社会における人間同士の共生と連帯が欠かせない。

 熊谷晋一郎氏の一文は深い問題意識を孕んでいる。
 偉人であると思う。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA

 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、この世の幸せとあの世の安心を祈っています。

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