コラム

 公開日: 2012-09-15  最終更新日: 2014-06-04

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その5)─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。




〈『小さき者へ』が書かれた年と同じ大正7年に造られた滋賀県近江八幡市の近江療養院(サナトリウム)から画像をお借りして加工しました〉

 有島武郎の時代は、結核はほとんど不治の病だった。
 季候の温暖な場所で過ごす転地療法が行われる一方、感染力が恐れられた。
 また、現代のガンに似たとらえられ方から、当人へ病名を告げるタイミング、あるいはその役割の決め方などに細心の注意がはらわれた。
 以下の文章には、そうした時代に最善を尽くそうとする人々の姿が描かれている。

「それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後あとにして旅に上ったのは。
 忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残(ナゴ)りを惜しんだ。
 陰鬱(インウツ)な津軽海峡の海の色も後ろになった。
 東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。」
 そんな事を書けば限りがない。
 ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。

 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。
 それは私にどれ程の力だったろう。
 お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。
 一時は病勢が非常に衰えたように見えた。
 お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向(ヒナタ)ぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。

 どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。
 然(シカ)し彼はどんな事があっても仕遂(シト)ぐべき事を仕遂(シト)げずにはおかなかった。
 その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初(カリソメ)の風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。
 そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。
 その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫(シバラ)くも手放そうとはしなかった。
 お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。
 私は遂に倒れた。
 病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めに呻き苦しまねばならなかった。
 私の仕事? 
 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。
 それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。
 お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。

 正月早々悲劇の絶頂が到来した。
 お前たちの母上は自分の病気の真相を明かされねばならぬ羽目になった。
 そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。
 真蒼(マッサオ)な清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。
 そこには死に対する Resignation (レズィグナツィオーン)と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。
 それは物凄くさえあった。
 私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。」

 妻はほどなく、ほとんど隔離されるに等しいサナトリウム(長期療養所)へ入らねばならなくなる。
 サナトリウムという名の結核療養所は、重病人にとってはターミナルケアに近い役割も果たしていた。
 入院する病人も、送る人も、覚悟が求められた。

「愈々(いよいよ)H海岸の病院に入院する日が来た。
 お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍(ホゾ)を堅めていた。
 二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。
 女ながらに気性の勝(スグ)れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。
 その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。
 それは今は乾いてしまった。
 大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂(ルイドウ)に貯えられているか、それは知らない。
 然し(シカ)その熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。

 自動車のいる所に来ると、お前たちの中(ウチ)熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、──人はよちよちと歩いて、―― 一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣(ヅカ)いから連れて来られなかった――母上を見送りに出て来ていた。
 お前たちの頑是(ガンゼ)ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。
 お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。
 自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。
 母上は笑って軽く頭を下げていた。
 お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。
 不幸なものたちよ。

 それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。
 母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺(ノコ)すために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担(ニナ)い上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。」
 血まぶれになって闘ったといっていい。
 私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創(カタナキズ)を受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。」

 ここにも「不幸なものたちよ。」が現れる。
 有島武郎は、冒頭の方で、幼くして母親を失う運命の下に生まれ出る子供たちへ、こう言っている。
「お前たちは不幸だ。
 恢復(カイフク)の途(ミチ)なく不幸だ。
 不幸なものたちよ。」
 母親との永久の別れであるとも知らずに、滅多に目にしない大きな車ばかりが気になっている姿へ、容赦なく不幸と断じている。
 人生の始めのあたりで大きな不幸をまとってしまった人間へ、簡単に癒しの言葉を贈らない。
 言葉の真綿にくるまれたくらいで癒せるものではないことを知り抜いているからだ。
 本人が、逃げずに不幸を生きて行く中で克服するしかない。

 病魔との戦いは家族を挙げた全面戦争となる。
 倒れては立ち上がる。
 いのちある限り。
 それぞれ、いかに「血まぶれに」なろうとも。
 母親の、妻の病気は、決して母親の、妻のものだけではない。
 子供の、夫の、家族の、一族のものでもある。
 だから、一人残らず全員が戦った。




 こうした内容に関心のある方はブログ(http://hourakuji.blog115.fc2.com/)の拙稿をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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