コラム

 公開日: 2013-05-09  最終更新日: 2014-06-04

宗教的救いと宗教を超えた救いについて ─仙台稲門会にて(その3)─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。






 5月7日に行った仙台稲門会でのお話についてまとめています。

3 宗教が後退する時代

○宗教意識の希薄化

 私たちは、現実生活において、科学への信頼をどんどん強めています。
 昔は、喉に魚の骨が刺さったならば頭にわらじを載せ、難産ならば屋敷内の堀を掃除しました。
 今は、医者や薬や器械が明確な結果を出してくれます。
 ダライ・ラマ法王も、こう言っておられます。
「祈りは、たとえば近代科学によってもたらされる成果に方を並べられるようなものではないことは明らかです。
 何年か前、病気になったとき、人々が私のために祈ってくれているのを知って大いに慰められたものです。
 しかし、それよりももっとほっとしたのは、入院先の病院に私の病気の治療に最も適した最新設備が備わっていることでした!」

 宗教の役割は、迷信的に「こうしてすがれば助かる」といったレベルから、物理的に最善を尽くそうとも得られないかも知れぬ結果を何としても得たい、あるいは、予想される結果を変えようとするよりも結果に対する不安などを何とかしたい、といった形に変わってきました。
 いかに科学が発達しようとも、心の変化が世界の変化につながる、心が変われば世界が変わる、という道理に即して宗教は役立っています。
 現代の文明では科学が主役ですが、脇役が不要になることはないものと思われます。

 日本では、家族形態の変化に伴って、代々受け継がれてきた宗教もまた変化しつつあります。
 家の宗教が消え行き、個々人の宗教になってきました。
 たとえば、家族の一員が家族にとってまったく新しい新興宗教などとの縁を深めたばかりに、家族の絆が危うくなるといったケースは今後、増大することでしょう。
 しかし、私たちはいつの時代も〈新興宗教〉とうまくやってきました。
 いかなる世界的広がりを持つ宗教も、最初は新興宗教だったのです。
 叡智をもってすれば、個人の集まりである家族にとって宗教が死者との絆としてだけでなく、生者同士の絆としても役割を失うことはないものと思われます。

 価値はすべてお金に換算される時代になりました。
 今や、病院も、学校も、儲けなければ成り立たちません。
 本来、医師や教師、あるいは弁護士や税理士など、「師」や「士」が従事する世界は儲けと無縁だったはずなのに、儲けを考えなければやって行けない仕組みになりました。
「師」や「士」という文字から品格が薄れるのと同様に、宗教の世界にも明らかに一線を越えたとおぼしき事例が現れ、宗教へ厳しい目を向ける方々が増えてきているという実感があります。
 たとえば、寺院が駐車場の経営を行うことなどについて、いかがなものかという思いを持っています。

○複数想定され得る超越的救済者

 宗教によっては、「超越的存在を信じる者は救われ、信じない者は救われない」と説いています。
 超越者に究極的判断力があり、究極的救済の手段もあるとするならば、この教えは論理的に成り立ちます。
 ダイヤモンドの刃でなければ切れないものを切ろうとすれば、ダイヤモンドの刃を用いるかどうかのみが結果にかかわるのと同じです。
 しかし、そうした超越者を想定しなければ、人間を天国と地獄へ二分する〈他力〉はどこにもありません。

 この世へ生まれ出た人間にあるものは、可能性だけです。
 可能性にかかわるものとして、仏法は超越者を想定せず、因果応報を理としています。
 もちろん〈特定の誰か〉として生まれる以上、そうした結果をもたらした原因は過去の何かにしかありません。
 それをカルマ(業)と言いますが、生まれ持ったカルマは、成長し生きて行く過程でつくるカルマの力が増大するに従って相対的に運命にかかわる力を小さくして行きます。
 遠い過去の因縁が主題となる小説や映画などがいつの世も一定の支持を得るのは、現実の人生に伴う苦の原因を自分の現世における生き方だけに求めてしまい切れない私たちの弱さを示しています。
 ともあれ、いかに生まれたか、よりも、いかに生きるか、が人生を大きく左右することは経験からしても納得できる考え方であり、世界は、個々人がつくる業の集まりである共業(グウゴウ)によって動かされています。

 人間はあらゆる面で多様であり、想定する超越者も当然、多様です。
 人格的な神々を想定する人々もいれば、たとえ口には出さなくても、故郷の山などに超越的な何ものかを感じつつ生きている人々もいます。
 私たちの文化においては、普段、「自分の信じる超越者のみが絶対的存在であるからそれに服従せよ、さもなければ不幸になる」などとは言い争いませんが、そうでない人々もいます。
 人間は、特定の超越者だけが絶対的救済者であるとする排他的な面を避けられない考え方を持ちつつ、お互いに心から敬意と誠意を持って接し合う穏やかで争わぬ世界にたどりつけるかどうか、とても難しい問題を抱えています。
 
 今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y




 こうした内容に関心のある方はブログ(http://hourakuji.blog115.fc2.com/)の拙稿をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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