コラム

 公開日: 2013-12-29  最終更新日: 2014-06-04

時間の「長さ」ってなんだろう ─一瞬が永遠とつながる不思議─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。




 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○もし時間に単位がなかったら

「~私たちは時間というものをどうやって把握しているでしょうか。
 たいていは六十分は一時間で、二十四時間は一日で……というこの世界での単位で捉えるでしょう。
 しかし、これは時間そのものではありません。
 時間を扱うにあたって私たちが決めた便宜上の単位に過ぎません。」

 私たちは1時間という長さをもったものをどこにも特定できません。
 たとえば午前5時を時計で確認した上で6時になったなら、1時間の経過を感じますが、そう推定できるのみで、去った1時間はどこにもありません。
 また、午前5時1分を示す時計に目が行っていた人にとっては、6時1分にならない限り1時間の長さは満たされておらず、1時間というひとまとまりの時間は、私たちの都合によって区切られ、いつ、どこででも、何かの道具によってそう視認するしかない、とらえどころのない概念です。

「それでも単位がなくなった途端、私たちは時間を扱うことができなくなってしまいます。
 月、年、世紀、……とスパンを拡大していけば、最後には何の区切もないただの時間になってしまいます。
 そしてその中では、過去も未来も全て一つの時間としてくくられて、実感として捉えることができないのです。」
「逆に、短い時間を考えてみましょう。
 時間をどんどん細かく分割していけば、一時間は六十分に、一分は六十秒に……と細かく区切っていけますが、すぐに捉えることのできないほど細かな時間になってすまうことでしょう。」

 長く区切っても、短く区切っても、〈どこまでも区切る〉という作業はできません。
 一日は太陽の動きで、一年は廻る季節で体感できますが、過去の十年は自分の体つきや、アルバムや、やってきたことの記憶などを頼りに、今を基点にして遡ってみるのみです。
 確かに〈一年の十倍〉が過ぎたはずなのに、私たちはその長さを〈一年の十倍〉と正確に実感できはしません。
 生きてきた十年は一瞬の隙もない事実の連続なのに、まとまって捉えようとすれば茫漠としてしまいます。
 ましてや、未来の十年など、空想の域から一歩も出られないのです。
 短くしても事情は同じで、時計の秒針がスッと動けば一秒が経過したとわかりますが、その二分の一ですら、私たちは正確に捉えられず、もう区切るという作業は想像能力をも超えてしまいます。
 時計を目から離してみると、秒針の動きはだんだん滑らかになり、やがては、区切るのではなく滑っているようにしか見えなくなります。
 こうなれば、〈秒〉はどこに確認できましょう。
 正確なはずの時間の実体は何とあやふやなものでしょうか。

「さらに『今』とはなにか、ということを考えてみてください。
『今』は時間を考える上で最も基本の概念ですし、私たちは常日頃から『今』という言葉を使っています。
 しかし、この概念を正確に定義できるでしょうか。
 仮に『今』を『この一瞬』だと規定します。
 でもそうすると、『今』には時間的な長さが全くないことになってしまいます。
 ところが私たちは、『今は食事中です』『今は幸せです』などと使うように、『今』にはある程度の時間を実感しているように思います。
 一方で『今』が一定の時間だとしたら、一体どこまでが『今』なのでしょうか。
 とてつもなく長い時間を『今』ということもできるし、ほんの一瞬を『今』ということもできる。
 結局、時間の基本である『今』ですら、正確に定義することができません。」

 たとえば、故三島由紀夫の『豊饒の海』2巻『奔馬』において、主人公飯沼勲が自決するシーンを考えてみましょう。

「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った。」

 突き立てたのは一瞬です。
「瞬間、」と区点で区切った表現は、〈その後〉について書くものではありません。
 あくまでも、〈一瞬〉がどうだったのかを並列的に示す文章です。
 だから、同時に真っ赤な太陽が「あった」のならともかく、「昇った」とはどういうことでしょうか。
 しかも、太陽が昇るための時間の経過は、私たちへ10秒や1分ではないある程度まとまった〈長さ〉を想像させます。
 でなければ、昇るという言葉が意味を成しません。
 それにもかかわらず、読者は何の違和感を感じることもなく、深夜、閉ざされた視界の中で日輪が昇るこの末尾の文章に余韻を感じながら本を閉じます。
 違和感どころか、生から死へ跳躍する〈一瞬〉が、悠久の時を経て繰り返される太陽の運行という〈永遠〉とつながる〈今〉の崇高さに参ってしまう……。

「つまり、『時間』には、確かな実体はないということです。
 確かに時間は存在するし、常に流れているものですが、実体はない。
 私たちがどのように区切るかで決まる、概念に過ぎないのです。」

 今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0


 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

この記事を書いたプロ

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