コラム

 公開日: 2014-02-19  最終更新日: 2014-06-04

許され得る自殺 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(5)─

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。



〈雪空を眺める気高き者〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

3 自殺と殺人(その2)

○真の意味で自殺の完遂は不可能である

「キリスト教によれば、自殺は罪である。
 では、仏教の教えによれば自殺はいかなるものと考えるべきか。
 もちろん、一般的に言って、仏教の世界観に照らしても自殺は悪しき行いであることに変わりはない。」

 いのちあるものは、すべて、生きたいと願っている。
 生命体は生まれた瞬間から死へ向かいつつも、生きる方向へとプログラムされている意志と機能を用いて、いのちをまっとうする。
 特に人間は意志が明確であり、願いや希望は他者にも通じる。
 生きたいという形でしか存在し得ない生きものの願いを踏みにじることは罪である。
 たとえ、いのちを奪おうとする相手が自分自身であっても。
 ただし、罪が許され得ないかどうかは、単純な話ではない。

「ひるがえって、殺人について考えてみよう。
 何らかの事が成立するとはいかなることか、より深く、細部に立ち入って、哲学的な思惟をめぐらせてみよう。」

「人を殺す、殺人を犯すとは、どのようなことを意味するか。
 もし、仮にあなたが誰かを本当の意味で殺したと言うには、あなたの殺した人物が、あなたより先に死なねばならない。
 あなたが誰かを傷つけ、その傷が原因でその人が死んだとしても、それより前にあなたが死んだなら、もちろん殺人そのものは厳然として存在するのだが、事は完遂されてはいない。
 事実上の殺人は成立してはいない。」

「自殺においては、己(オノレ)自身を殺すという動機は存在する。
 また、その行為は現実に遂行されている。
 だが、あなた自身が死ななければ自殺が完成しない以上、あなた自身が己を殺すという行為を完遂させることは不可能だ。
 真の意味で自殺は成立しないということになる。
 だが、やはり自殺は悪しき行いであることに何のかわりもないのだが。」

 チベット密教では、殺生という不善行の成立を厳密に限定している。

1 対象
 まず、対象となる相手が特定されていなければならない。
 人間であってもなくても。
2 識別
 対象が有情(ウジョウ…意識のあるいきもの)であると認識されていなければならない。
3 動機
 過失や事故などによるできごとは、仏法上の不善行とはならない。
4 原因
 貪りや、怒りや、道理に合わない勝手な考え方などが根本原因となって動機がもたらされる。
5 実行
 自分の手によろうと、誰かの手によろうと、実行されねば行為ではない。
6 完了
 実行者よりも先に相手が死ななければ、行為は完了してはいない。
 たとえば、刺した相手よりも先に、返り討ちに遭った自分が先に死ねば、〈自分が相手を殺した〉ことにはならない。

 ダライ・ラマ法王は、自分が〈殺された自分〉よりも長生きすることはあり得ないので、「真の意味で自殺は成立しない」と述べておられる。
 自分を相手とする殺生は、厳密な意味では成立しない。
 ただし、本来、生きたいという願いを秘めて生きているいのちを破壊するという意味では、「悪しき行い」とされる。

○極限状態の中で、自殺は許される

「しかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。
 ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。」

「最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。
 話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した1959年以後のチベットのことに及んだ。
 彼には長く親しんできたラマ僧の友人がいた。」

「ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも50個もモモ(皮の厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、1キロもの肉を食べ、巨大なボウル一杯のヨーグルトと1リットルものミルクを飲むような生活をしていたという。
 それでいて、彼は宗教的にはすばらしく高い境地にまで達していたらしい。
 大量消費と宗教的高潔さが同居する不思議にして希な例だと言える。」

「その彼が、1960年代になってからのことだが、中国当局に逮捕された。
 反革命の容疑で人民裁判が行われた。
 即決裁判によって、彼は、翌日公衆の見守る中での鞭打ちの刑を言い渡された。
 ラマの高僧へ恥辱を与えることが目的であったとしか考えようがない。
 そこでどうなったか。」

「その夜、彼は瞑想に入り、自らの魂を肉体から切り離した。
 死んだのだ。
 いわれない恥辱を耐え忍ぶより、彼は《その生命》を、その瞬間に自ら断ったわけである。
 このような場合、こうした《死》を自ら選び取ることは許される。」

 非常に印象的なできごとだが、決して荒唐無稽ではない。
 結界を張り、法の世界へ入れば、そのままで居続けることは可能であり、死者へ引導を渡すように、行者が自分自身へ引導を渡すことは当然、あり得る。
 そもそも、密教の行者はいつも修法を行うたびに、こちらの世界とあちらの世界と紙一重のところを行ったり来たりしている。
 自分自身の肉体があと2年で耐用年数に達することを悟ったお大師様は、あえて延命の法を結んでこの世にいる時間を延ばすことなく、食を減らしながら〈その日〉へ向けて淡々と法務をこなし、預言通りに旅立たれた。
 これこそが、「《死》を自ら選び取る」という意味においては「自死」に類する逝き方とも言えそうだ。
 もっとも、肉体の死が魂の死そのものではないので、お大師様は、その宣言どおり、高野山奥の院に通じる弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土から私たちをお導きくださっているのである。

「彼が、もしもその夜、このようにして自らの命を断たなかったとしたらどうだったか。
 いずれにしても、彼は群衆の輪の中にひざまずかされ、鞭打たれ、あるいは拷問され、遠からず死なねばならなかっただろう。
 それならば、瞑想の中で死ぬほうがましである。
 なぜならば、彼が一日生きながらえればその分だけ、数日生きながらえればより多く、他者に悪しきカルマを積ませることになっただろう。
 鞭打つ刑吏(ケイリ)や拷問者は、彼を苛(サイナ)むことで悪しきカルマを蓄積することになるのだから。」

「他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。
 瞑想による死は自殺ではないと言う人がいるかもしれない。
 だが、仏教徒として見れば、呪いによって人を祈り殺すのが殺人であるのと同じように、瞑想による死もまた自殺である。」

「人を殺すに刃物や銃器をなどの武器を使おうと、マントラ(真言。祈りの呪文)の力に頼ろうと、その結末は、まったく同じだと言わねばならない。
 死である。
 他者の死。
 自殺するにロープを用いるか、毒薬をあおるか、瞑想の中での自己の肉体との決別を選択するか、それは手段の違いにすぎない。
 結果は死である。
 自己の死。」

「だが、よく肝に銘じておくべきだ。
 仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。
 極力、自殺は避けねばならない。
 ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状態の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。
 いかなる場合も、自殺を絶対的に罪だとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。」

「自殺ばかりではない。
 殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも、殺生として禁じられている。
 生命の破壊は罪である。」

 日々、ご本尊様から故人の戒名を授かり、引導を渡している行者として、得つつある確信がある。
 それは、いかなる亡くなり方をしようと、旅立てばすべて等しく、み仏の子そのものになるということである。
 導師にとって、ご葬儀の対象となる故人はすべて、自分よりも後から戒律を授かる弟弟子であり、一方、兄弟子である自分より先にみ仏の元へ還る先輩である。
 だから、引導を渡し終えた瞬間に惜別と敬意の思いが起こり、100返、200返と繰り返しているうちに、だんだん、頭が深く下がるようになってきた。
 当山には、いろいろな人生相談が持ち込まれる。
 自殺したから浮かばれないのではないか、親より先に死んだので長い戒名はもらえないと聞いた、こんな風に死んだのだから戒名をもらう資格がないと言われた、などなど……。
 それらのほとんどは不安の表れであり、怖れから生まれた俗信であり、あるいは迷信である。
 み仏は一切の差別なく、区別なく万人を救い、万物を救うという根本的真実の光をきちんと当ててお話申しあげ、修法すれば心の暗雲はすべて消え去り、皆さんは安心を抱いて帰られる。
 一切の差別をせぬ存在だからこそみ仏であり、み仏に救われない自殺者も殺人者もなく、あの世の救いは必ず、この世へも救いをもたらす。

 最後に「自ら死を選ぶ」問題に関し、お釈迦様の最期について考えてみたい。
 80歳になってなお、修行と説法の旅を続けておられたお釈迦様は、ある時、貧しい鍛冶職人チュンダが供養にと差し出したキノコ入りのおかゆを食べてお腹を壊し、入滅された。
 お釈迦様の体調の急変に驚き取り乱すチュンダへお釈迦様は言われた。
「嘆いてはならない。
 私は最高の供養を受けました」
 このできごとには深く考えさせられた。

1 貧しいチュンダは粗末なおかゆによってしか供養ができず、それを断れば、チュンダは救われない。
2 善悪は意志が決めるのであり、供養の一心でおかゆを作ったチュンダに罪はない。
3 弟子たちへ無常の真理をより明確に伝え、自らが自らの仏心をよりどころとして生きるという行者の心構えをつくらせるためにも、師である自分の死は必要である。
4 高齢者はいつも死に場所、死に方を考えており、供養による善行を実行させてチュンダを救い、弟子たちへ教えの再確認をさせられるならば、それが〈その時、その場〉である。

 悟りを開いたお釈迦様に毒キノコを判別できないわけはなく、私は、お釈迦様の入滅は、自死によるものと判断している。

 今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M



 ご関心のある方は当山のホームページ(http://hourakuji.net/)をご笑覧ください。
 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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