コラム

 公開日: 2014-08-25 

自我に始まりがあるか? ―仏教的視点から観た自我(2)―

 おはようございます。
 皆さん、今日もお会いできましたね。
 今般の大災害に際し、亡くなられた方々と、被災された方々と、原発事故の現場をはじめ、復興に尽力しておられる方々に、み仏のご加護がありますよう心よりお祈り申し上げます。





 前回、書きました。
「仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる『無我』が仏教の根本的立場です。」
 そして、今、ここに自分がいるといった感覚は、日常的なものとしては認めても、根源に迫る仏教は、その先を問います。
 いると思う自分を突き詰め、一体、自分そのものは〈どこに〉見出せるか?
 そうすると、手にも足にも目にもどこにも見出せず、ただ、五つの要素が集まっている特定のものとして、名づけられ固定されたというしかありません。
 ダライ・ラマ法王は端的に述べられました。

「自我は五蘊(ゴウン…心とからだの構成要素の集まり)に依存して名前を与えられた存在である」

 五蘊とは、つねれば痛いこの身体(色蘊…シキウン)、見聞きしてはたらく感受作用(受蘊…ジュウン)、あれこれを分ける識別作用(想蘊…ソウウン)、どうこうしようという意志作用(行蘊…ギョウウン)、自分がいるなどとわかる認識作用(識蘊…シキウン)の5つです。
 これらがうまく集まり、共存している特定の者としてのみ、自分はここにいるのであって、ガラス細工のような自分の核となっている自我の存在など、どこにも確認できません。

 論を進めましょう。
 どうして、たまたま五蘊が集まっているかといえば、集まる原因があるからです。
 何もかもが、原因と結果のつながりとして生じているのであり、この因果の法から外れるものは何一つありません。
 一瞬も止まらず変化し続ける因と果の流れにあるありとあらゆるもののありようは、固定した実体を持たない空(クウ)です。
 だから、仏教では、因果の理から外れ、空(クウ)でもない創造主とされる神の存在を認めません。

 一口に因果と言っても、果をもたらす因には直接的なものと間接的なものとがあります。
 因と縁がある、とも言えます。
 因があっても縁がないと果が生じないのは、種があっても水が与えられなければ芽が出ないことでわかります。
 
 さて、私たちは、モノとしての身体と心としての意識が精妙にからみあって存在しています。
 意識には、身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、「微細なレベル」とがあります。
 モノとしての身体が切られれば痛いと意識するし、モノとしての身体がケガや加齢ではたらきを失えば、意識の行方も定かではなくなります。
 これが粗いレベルの意識です。
 一方、生まれつき性格が荒々しかったり、おとなしかったりといった性格に彩られた微細な意識の違いは、生まれる前の前世(ゼンセ)に原因があり、意識はこの世での生活ぶりによって知らぬ間に変化し続けます。
 これが微細なレベルの意識です。

 意識も因と縁によって仮そめにありますが、〈今ある意識〉の因は、あくまでも〈その前の意識〉にありす。
 決して、樹木や雲や鳥といったモノに原因を求められはしません。
 ダライ・ラマ法王は述べられました。

「実質的な因の連続体がないと、間接的な因だけではひとつの現象の存在は成立しないので、実質的な因は必ず必要です。」

 間接的な因としての縁があるだけでは現象が成立せず、実質的な因がなければならないのは、水があっても種がなければ芽が出ないのと同じです。

「意識は『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つものなので、意識の実質的な因も、そのような本質を持つ因でなければなりません。」

 ここで説かれる「そのような本質を持つ因」となっている意識もまた、その因を求めれば「そのような本質を持つ因」でしかありません。

「意識の実質的な因をずっとさかのぼっていくと、その因のはじまりを見つけることはできないので、意識にははじまりがない、といわれているのです。」

 もしも、こうした意識に始まりがあるとすれば、その原因となっているものは意識以外のものということになりますが、そうした事態はあり得ません。
 意識と物質的なものとは種類が異なっており、意識が物質的なものの実質的な因になれないのと同じく、物質的なものもまた、意識の実質的な因になれないからです。
 かつて、インドのサイババは、ビブーティという灰や指輪などを念力で生じさせると称して世界中から信者を集めましたが、彼が外国旅行中に仕入れを行っている現場が目撃され、騒動は終結しました。

 ダライ・ラマ法王の結論です。

「人を規定するときの土台となりうるのは、五蘊の中でも主に意識であり、意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない、ということになります。」
 
 自我に始まりはないのです。

 今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0


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 山里の寺から、有縁無縁の方々の、あの世の安心とこの世の幸せを祈っています。

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